強い風が谷を吹きぬけていく。風は丘を吹き上がり、その先には四角い大きな砦が街を見下ろすように立っている。
深い緑の谷には、古代ローマ人が作った水道橋が風をさえぎるように、凛として谷にその存在を誇示しています。
水道橋は今日、歴史的建築物として残っているだけで、実際の生活に水を供給することはしていません。水道橋はその優雅な姿だけでなく、そこを渡って対岸にいく者には、歩道橋になっています。
たくさんの塔が支えているように見えることから、「塔の橋」とよばれています。一番高いところから川底へは80メートルもあります。
<歩道橋>
ローマの北、130kmにスポレートという街があります。ずいぶん昔になりますが、2009年1月18日(日曜日)ウンブリア州、ペルージャ県にあるスポレートに行ってきました。
ローマ帝国のころには、ローマ・リミニ間を結ぶフラミニア街道の要所にあったためローマ帝国の同盟自治都市として栄えた。街は背後に山があり、水が豊富にあるため街は青銅器時代から人が住みはじめた。ウンブリア族、その後、ローマ人が、紀元前3世紀には城壁に囲まれた街が存在していたというから、相当古い。
<ローマ帝国時代に作られたギリシャ劇場跡が現存している>
カルタゴのハンニバルがイタリアに侵攻した第二次ポエニ戦争では、ハンニバルに街を攻められて、城門から煮立てた油をカルタゴ軍に浴びせ、撃退した歴史があります。ハンニバルをも恐れないで闘った勇気ある住民でもあります。
この街を世界的に有名にしているのが「2つの世界」というフェスティバルです。毎年6月から7月にかけて、ここスポレートとアメリカとで開催され、ジャズ、オペラ、ダンスなどが楽します。この期間だけは、この田舎もコスモポリタンな街として変貌します。
この街のドゥオーモの内部には、ルネッサンス期の傑作と言われる、フィリッポ・リッピの作になるフレスコ画があります。
聖母の戴冠がクーポラの内部を飾ります。フィリッポ・リッピは不幸にも、製作中に足場から落下して死亡しています。彼の墓はこのデゥオーモの内部にあります。
余談ですが、スポレートの仕事場で最後を迎えたフィリッポ・リッピは、実はとんでもないスキャンダルの画家でした。フィリッポ・リッピの母は産褥死し、8歳で修道院に預けられます。しかし、彼は遊びが大好きで、さらに、女性に言い寄ってばかり。修道僧とはほど遠く、現代風に言えば不良少年でした。
しかし、彼の絵の才能が尋常ではないことは周りの人々に認められていました。50歳になったフィリッポ・リッピは、1455年、フィレンツェ郊外20キロの都市、プラト(Prato)にあるサンタ・マルゲリータ教会でフレスコ画の制作をしていました。その教会の修道院の尼僧、20歳のルクレツィア・ブーティという絶世の美女に一目惚れし、制作していた作品にルクレツィアを描き、しかも、ルクレツィアを誘拐して同棲を始めてしまったのです。
当然のことながら、当時もこれは大きなスキャンダルになりました。バチカンから破門されかねない状況だったのを、フィレンツェの権力者であったコジモ・ディ・メディチの仲裁で、二人は修道院の外で生きることを許されました。「たぐいまれなる才とは天からの贈り物であり、そのへんのロバ引きとは違うのだ」と、コジモは言ったそうです。現代なら、ロバ引き組合から非難声明が出たところですが、その当時はコジモに逆らえる組合はありませんでした。
<ウフィッツィ美術館所蔵「聖母子と二人の天使」/出典:ウィキメディア・コモンズ>
フィレンツェのウフィッツィ美術館が所有する「聖母子と二人の天使」。私はこの作品が一番好きですが、聖母は当然ルクレツィアであり、聖母の物憂げな表情、真珠を絡めた当時の貴婦人の髪型、当時としてはとても斬新な作品です。現地を訪れたら、ぜひ本物をご覧ください。彼が愛したルクレツィアと彼の息子が絵の中に生き続けています。
今、街はいたるところで修復中です。古い街だからどこかしこが崩れ落ち、壊れ、漆喰も落ちます。中世の街を維持は、弛まない修復の努力の賜物に違いありません。
古い街は同じ姿で100年後の子孫にも残していく、というイタリア独自の信念がここにもあります。中世の街並みを、自分たちの子供、孫に残したいというイタリア人の気持ちがあればこそ、この古い街並みは残っていくだろうと確信をもった次第です。